その他
2010年04月15日
おくりびと チェロの音色
人間の考えること(この場合脳みそといったほうがいいか・・・)はなかなか複雑で、でも簡単に周囲の情報や状況に影響を受けて勝手に思いこんだり、こだわったりする。
ある時はいろんなキーワードを縦横に串刺しされて合成したり、また意味もなくバラバラな要素に分解もする。そういう意味ではホントに深くて曖昧なものだなと。
昨日は企画書を作ったり、営業回りをしたり、売り掛け回収を行ったり、お客さんからたのまれたPC不具合の原因究明を行ったり。そんなまとまりのつかない仕事が断片的に続いたあと、必要に迫られて途中まで作成していたデータ移行のプラグラムの続きを組んでいた。コーディングは昔取った杵柄とはいえ、経験の浅いPG言語だったことに加えて、もうかなり数学的な思考回路が退化してしまった脳みそとの格闘になる。何度も見直したはずの部分に隠れてバグをなかなか見つけることができなかったことに軽くショックを受けながら、まあ、たまにはいい頭の体操になったと気持ちを切り替えた。しかし、少々深追いしすぎた。
明日の事も考えてそろそろ休もうとするも、頭がぷすぷす音を立てながら湯気が立ち上るような状況では、すぐに寝つけそうもなく。あ〜またやってしまったという思いがよぎりながら、どうやって眠りまでのクールダウンをしていくかを思案する。
仕事がはかどる調子のいい日もあるが、調子の悪い日もある。
でも調子の良い日にあまりのりすぎて無理をすると、結局トータルでマイナスになってしまもの。
結局プロとはそういう自分を律する力を持たなければプロたり得ない、そういうことなんだろう。
毎日規則正しく、時間を決めて作曲するという久石譲さんを思い出す。
そして録画したまま観た気になってしまったいた『おくりびと』を探しだし再生した。
そのときなぜか、ノッキン・オン・ヘブンズドアを観た夜に似た感情だったことを後で思い出す。
おくりびとの曲も、ストーリーも、印象的な場面もなんとなくすでに頭に入ってしまっていて、「アカデミー賞の外国語映画部門賞を獲った映画」という余計な情報もあり、こんな場面がアメリカでも受けたのかな?ここで笑ったりしたのだろうか?などと脇道にそれたことばかり思いながら、本来の面白さとは少しズレた観賞だったように思う。でも、そんな悪条件がありながらも数々のシーンが焼き付くように心に残っていくのがわかった。本木雅弘も広末涼子も滝田洋二郎も久石譲もすごいな。そして観終わると、チェロの音色に体中を包み込まれるような感覚になり、あっさり眠りについていた。
そして昨晩、久しぶりにへんな夢をみた。ほぼ本当にみた夢。
祖父、祖母と夢の中で再会するという内容だった。
自分が祖母の手をひきながら、二人で散歩していた。
お世話になった人々や親戚の家を何件も訪ねて回っていた。
その間の祖母は楽しそうだったが、最後までまったく言葉を発しないのが印象的だった。
長いこと二人で歩いて日も暮れた頃、博多・春吉から春吉橋あたりの風景にたどりついていた。
でもその風景には博多にあるはずもない小倉井筒や玉屋なんてデパートも立ち並ぶおかしな風景で。
そこ春吉橋の上では旅回りの落語家一座キャラバン隊(?)が即席寄席をやっていて。
4人ほどの落語家さんの名は覚えてないが、そのなかの一人がulalaさん?!ではないか。
ドクターのかたわら旅回りの落語をやっているというよくわからない設定のようだ。
その時ulalaさんとはなんとなく目線でお互いを確認し、うなずいたように記憶する。
落語にくわしくないのは夢の中でも同じようで、これがなんの演目かもしらないままただ聴きつづける。
その時、祖母と自分が座っている横にはいつのまにか祖父が座っているのに気がつく。
「福岡住まいは長いけど、気の利いた飲み屋さんもあんまり知らないしなぁ。」
「ulalaさんを今夜はどこに飲みに誘おうかなぁ?」
などと落語とは関係ないことを祖父と話しながら。
そうこうしているうちに、祖父が胸を押さえて徐々に苦しみだし、パニックに陥り。
脈を診る、声をからして人を呼び、救急車を呼んでくれと叫んだ。
ぎこちなく胸に手を押し当てながら、(夢の中ではあるが)生まれて初めての心肺蘇生をこころみた。
そしてすがるようにulalaさんの方向をを振り返ってみると、なんとも間の悪いことに橋の上でヤクザにからまれてもめている最中で、こちらに気がつかない。
このあたりから、これは夢の中なんだなぁと半分気がついていたような状態だったが、不思議な感覚がやわらかく心地よく、このまま最後まで夢を見ることを続行した。
おちもなにもなが、はっきり覚えているのはここまで。
でもこんなに夢を覚えているのもめずらしい。
”寝る前に観たばかりの映画おくりびとのシーン記憶”
”幼少時代、祖父母にはさまれて川の字になって寝ていた記憶”
”ulalaさんのブログの記憶”
たぶんそんな記憶が引きおこした夢だったのだろうか。
現実と夢との境目がいたるところで入り組みあいながら、勝手な風景や場面を作りだしたり。
どうやら全体的には何かの関連づけがありそうだと感心し、
これはブログに残しておきたいと思った。
2009年09月12日
リズム感の鍛え方と才能への憧れ 〜 Robert Glasper Trio
最近聴いた音楽の中では、椎名林檎とマボロシのMummy-Dがラップで交わる曲『流行』が印象的で、ヒップホップへの理解を改めたいなと感じていたところに、「JAZZとHIPHOP」というこれまた魅力的な組み合わせに食いつく。
自分の中でヒップ・ホップという音楽は、旧くはEric B. & Rakimあたりで止まってしまっていて、そういえばあのグループに興味が湧いたのもラップにJAZZ的なサウンドを乗せたスタイルがとにかく新しく感じたのが理由だった。そう思うと、人の趣味嗜好はそう簡単には変わらないものだなと感じてしまう。
そんなこんだで「Robert Glasper Trio」で検索していたところ、この動画に出会い、感動で大ノリ!
ピアノのロバート・グラスパーがひたすら繰り返す変則拍子なフレーズに呼応するように叩きまくるドラムの応酬には興奮させられる。このJamire Williams(ジャミア・ウイリアムス?)というドラムス。ニルバーナやエイフェックス・ツインをJAZZカバーしたバッド・プラスのデヴィッド・キングを彷彿とするような演奏で、これでまたお気に入りのミュージシャンがひとつ増えたな〜と、大収穫にニヤけてしまった。それにしても、いったいどんな鍛錬を行えばこんな演奏ができるのだろうか?
実は今夜、タモリ倶楽部でビートルズの新旧聴き比べ企画が見られると楽しみにしていたら、どうやら福岡のKBCテレビでは週遅れの放送だという事実にやっと気がついて。このまま思いっきり肩すかしをくらったまま、虚しく寝るところだったので、いやぁよかったよかった。
2009年09月02日
爆笑問題のニッポンの教養「台本のない音楽会」〜坂本龍一
近ごろ22時以降のNHKはまさにmyゴールデンタイム。
8月はちょっと今までになくblogがんばっちゃったんで、今夜はもういっか〜と思っていた。
でも、面白かったので、やっぱりちょっとだけ書き留めておきたく。
13世紀の古楽「Ecole Notre-Dame (XIIIeme siecle)」 by Ensemble Organum
アフリカの音楽「Bobangi」 by Aka Pygmies
アイヌの音楽「鶴の舞(踊り歌)」 by 阿寒コタン
「天使の誘惑」 by 黛ジュン
「愛のデュエット」 by ジョン・トラボルタ&オリビア・ニュートン・ジョン
「花」 by ASA-CHANG & 巡礼
「4:33」 by John Cage
「Spring is Here」 by Milli Vernon
「彩 〜Aja〜」 by サザンオールスターズ
「Redemption Song」 by Bob Marley & the Wailers
「テレ東」 by 相対性理論
「Merry Christmas Mr. Lawrence」 by 坂本龍一
NHKで「台本のない」なんて有りえない気もするが、確かにそう思わさせられるような選曲。
爆笑問題と坂本龍一との会話は、音楽についての嗜好でいうと一瞬交わったり大きく離れたりで。
たぶん、番組を観ている我々も、交わったり離れたりを感じながらだろう。
こんな感じに互いに好きな曲を持ち寄って、好きなことを話すことは、間違いなく楽しい。
その人をより深く知ることができる良い手段だとも思う。
「台本がない」とはいえ、最後の生ピアノ演奏の戦メリはお約束だったろうけど、
わかっていながらも鮮烈な演奏によって、今日の番組を最後に全部もっていってしまった感じで。
曲後、爆笑・太田がおどけて放った「メリークリスマス・ミスターローレンス」の言葉も、
演奏だけで全てを持っていっちゃった坂本龍一に対する悔しさもあったのでは?
いや、見ている自分も「それはあまりにかっこよすぎじゃない?」となぜか悔しさ滲む。
2009年08月24日
色即ぜねれいしょん
みうらじゅん、田口トモロヲといえば『アイデン&ティティ』の組み合わせで、
期待が高まるこの映画。『色即ぜねれいしょん』。
演者の中には、またまた登場の銀杏BOYZ・峯田和伸の他、くるり・岸田繁までも含まれ、これは観ないとダメでしょう、という感じで。そして、その期待を裏切らないだけの内容に、いやよかった。楽しかった。
「青春ってなんやろ?」、「行かへん?旅」、「音楽は武器やろ」、ということ。これに集約されてて。
この映画は、男の子、女の子、世代の違い、趣味の違いで共感度が大きく別れるかもしれないとは思うけど、ロック好き非体育会系の少年時代を送った人にとっては、ここも、あそこも、あんなことも、こんなことも、それ、オレのことやん!と言いたくなるような気恥ずかしい甘酸っぱいことばかりではないだろうか。
思わず黒猫チェルシー・渡辺大知演じる主人公の「純」に感情を乗っけてしまった。
原作者みうらじゅんや、映画を撮った田口トモロヲが、こんなにも悶々とした少年時代の物語をリアルに表現出来るということも凄く。
きっと大人になっても基本的には十代の頃に思い感じた事は、そう簡単には無くならないのだろう。
「この映画は、“文化系ルーキーズ・卒業できない”、あるいは“余命70年の童貞”というような作品です。」(田口トモロヲ)・・・これには笑ってしまう。
峯田和伸のはまった役者っぷりも良かった。でもそれにも増して、岸田繁の胡散臭いヒッピーぶりが良く。役者としても十分面白いじゃないかと。新しい発見。おかん・堀ちえみ、おとん・リリー・フランキーも良い味を出していたり、ひょっこり宮藤官九郎も出演していたりして。くどかんも「青春」「音楽」のキーワードにはよく絡んでくるな〜。意外だったがオリーブ役を演じた臼田あけ美がけっこう魅力的だったこと。「歌スタ!!」アシスタントのイメージしかなかったのだが、スクリーンの中では、それまで知らなかった女優の姿を見た。
青春音楽映画といってなんとなく思い出すのが山下敦弘監督の『リンダ・リンダ』だが、この色即ぜねれいしょんの脚本:向井康介が同じく手がけていたことも知る。そういえば山下敦弘『天然コケッコー』の音楽はレイ・ハラカミ、主題歌くるり、こんなところでもつながりを感じる。映画への共感は、そういったところからも醸し出されてくるのかもしれない。
ただ、アイデン&ティティもそうだったけど、ここでも出てきたのが『ボブ・ディラン』。
みうらじゅんの原作だから、当然のなりゆきなのだろうけど。「非体育会系」ではあっても「超文化系」ではなかった自分にとって、ボブ・ディランを通過してこなかった事だけが、ちょっと心残りでもあり。
でも、それが今の自分をカタチ作っているのだから、それはしかたないのかな。
2009年08月19日
The Essential / Glenn Gould
良い音楽を言葉だけで説明するのは土台無理な話し。
音楽を肴にブログを書いている自分だけど、それは好きな音楽を他人に薦めたり(押しつけたり)したい気持ちなのか?自分の心象を記録したいが為のなる自己顕示欲なのか?
なんらかの共感を求めてのことだというのは明らかだが、ネットに公開して人に読んで頂くことを考えると、そこで何かが伝わっているのか、何か有益な情報を伝えることが出来ているのか、という焦りがいつもつきまとう。
逆の立場で考えると、もし全く素性もしれない他人が、好き勝手述べる批評にいきなり感銘を受けたり興味を持ったり影響を受けてしまうということは少ないように思うし、やっぱりその人の背景、好み、人間関係などの人物像があって、そういった周辺情報が真実味を与えてくれる部分が大きいと感じる。だから今の自分は、自分の好きな音楽、ミュージシャンについての気持ちをだれかと共有したいのだろうから、その音楽について書く感想や気持ちの共有密度をより高めるために、どうでもいい日常の自分の出来事や感情も上乗せして、こうやってブログにせっせと書き続けるのだろう。もっとボキャブラリや作文テクニックがあれば、そのような自分紹介部分は除いて端的に、ストレートに人に音楽について伝えることができるかもなという思いも出てきて。今からでもそういった技術を磨けないだろうか?そしたらもっとブログが楽しくなるかもしれない、でもいまさら、などとグズグズ考えたりもする。
レコード、CDのライナーに寄稿されるライターさんの文章を読んでいると、つい自分のブログと比較してしまい、実に無駄なく有益な情報が多いことに感心させられる。ミュージシャンの人物、足跡の紹介やメディアその他の評価を、時代や状況との関係性についても側面で触れながら、客観的な分析が行われ。それによって聴視者はより作品についての理解を深めることができ、さらに筆者自身の感想や心象を付け加えることで、われわれに共有意識も植え付けてくれる。それが「自分の中にヘンな先入観を植え付ける余計な情報だ」と言われると、そういう側面も否定は出来ない自分もいるが、でも結果的により音楽を楽しめることに貢献しているとするならば、それは全く問題ないはずである。
以下、ライナーノーツより。
「1955年にグレン・グールドという名の超新星が、人々のはるか上空で・・・」
「批評家達の多くは最上級の賛美の言葉を探し求め、ある批評家は『神に導かれたピアニスト』とまで言い切った。」
「ぐずぐずしてはならない。すぐ彼を聴き、彼にふさわしい名誉と聴衆を与えなければならない。どんな年齢であれ、彼のようなピアニストを私たちはほかに知らないのだから。」
「伝統的な音楽づくりのルールだけではなく伝統的な”聴き方”のルールも破ったグールドは、それまでもクラシック音楽に接したことのなかった膨大な数の人々にも注目され、彼らに深い感動を与えた一方では、世界中の偉大な音楽家達を魅了し、触発し続けた。グールドが人を感動させる力は分析というものを超越している。」
「・・・けれどもグレン・グールドは、どんな音楽を演奏していても、いつも私たちに素晴らしい時間を過ごさせてくれるピアニストだった。」
(by ジェレミー・シープマン)
以下、このブログ主
「とってもいい音のCDだった。BLU・SPEC CD。もっといいステレオセットが欲しくなった」
「バッハで1時間以上聴いても飽きない自分にとって唯一のCDかも」
「このグレン・グールドのモーツァルト:ピアノソナタは、エキセントリック。もう興奮もの!」
「グレン・グールドが凝縮されたようなこの2枚組CD。お薦め下さった方に感謝です。」
(by shira-kumo)
2009年07月17日
(R+) News Week 「マイケルよ永遠に」
でも、ただのミーハーファンである自分にとっては、早くも歴史の出来事になろうとしていた。
そんな自分でさえ、この雑誌の記事を読み終える時の感覚は、衝撃の訃報が流れたあの日にもまして、深くマイケルについて感情の高まりを感じることになってしまった。
実は昨日「 レビュープラス(R+)」なるサービスからデジタル雑誌「News Week」が届いた。
このR+というサービス、サイトに登録しておけば、商品(書籍など)にマッチしたジャンルのブログ主に、レビューを書くこととひきかえに商品をもらえる、という趣旨のものらしく。
出版業界のいわゆる「献本」にあたるようなものなのか?
それを、一般ブログ書き人にも門戸を開いたということなのだろう。
で、News Weekが送られてきた(WEB上での閲覧した)わけだけだ。
本来この雑誌に自分の音楽中心ブログでのレビューなんてなんの価値もないだろうけど、そのメイン記事が「マイケルよ永遠に」だったので、音楽というテーマがかかったのだろう。もしくは、登録した人が少なくて、無条件に送られてきただけなのかもしれないけど。
『ニューズウィーク日本版(完全永久保存版 マイケルよ、永遠に)』
(2009/7/15発売号)
そういえば、ネットに接する時間の割合が大きくなるにつれ、ブログやニュースサイトで情報収集する時間がふえるにつれ、「雑誌」という紙媒体を読まなくなった気がする。紙媒体でまあまあ読むのは、1.技術書、2.小説(偏向ぎみ)、3.仕事に関わる業界の情報誌(?)、くらいのもので、雑誌、週刊誌、マンガ雑誌などは数年前に比べて極端に購入する機会が減ったのは間違いない。新聞すら、読む時間は格段に減っている。(やっぱり新聞は紙のヤツのほうが面白かったりするが・・・)
だから、今回のデジタル雑誌、それも『News Week』というメジャーモノということで、ちょっと興味深いものだった。
今回の大きなテーマ「マイケル・ジャクソン」について、実に様々な角度、様々な立場で記事が書かれていて、自分はこれまでMTVとゴシップ記事からしかマイケルの情報を吸収してこなかったことを、まず感じた。
それだけ、当地アメリカのマイケルに対するメディアの情報量、大衆の想いは日本のミーハーファンと格段の差があるのではないかなと。でも、それは行き過ぎたゴシップ報道、作られたイメージ、偏執的なマイケルに対する想いが日本とは比べられないが大きかったのだろうことも認識させられるし、それにビックマネーに群がる人々、人種にかかわるすれ違いも複雑にからんだ状況が、マイケルを追い詰めていく過程が改めてわかってくる。
これは壮絶なポップスターに生きざまであり、偉大なポップスターの軌跡であり、マイケルが亡くなって手が届かなくなって、事の重大さ、関わった人々の悲しみ、自戒を込めたようなメディアの責任についても語られる。
たまには良質な有料情報も必要だなという感想。
と、無料で頂いたものなので、なんだかお手盛りのレビューまがいになってしまったような気もするので、気になった点もひとつ。
デジタル雑誌というから、普通にPDFファイルなのかと思ったら、fujisan.co.jpさんの提供するビュワーはちょっと凝っていて、紙をめくるみたいなイメージで、結構面白かった。調子に乗って、100ページほどの記事をバンバンめくりまくったら、裏で動かす他のアプリケーションにちょっと不具合がでているのに気がついて。クリップボードの機能がおかしい、とか。FLASH表示がメモリを食うのかなぁ?単に自PCの不具合の可能性もあるので、また検証してみたいと思う。
ということで、任務終わります。
トラックバック送信!
2008年12月30日
ジュリー流れイギー・ポップ経由、大江慎也
昨日のジュリー祭り90分を過ごしたあと、坂本龍一のインタビュー番組が90分放送された。
坂本龍一を90分出演させながら、曲は全くなしで。
インタビュアーは良くも悪くもNHK的な女子アナで、話しがかみあっているのかいないのか。
でもテレビ番組としてはまあまあ面白かったと思った。
そして続けざま放送されたのが、プリテンダーズのハイビジョンライブ。
時間はこれも90分間なので、この暮れの慌ただしい時期の夜中4時間半もテレビ小僧になる。
ゲストにはイギー・ポップという大盤振る舞いだ。
NHKもいったいどうしたんだろう?サービス良すぎ!
プリテンダーズのクリッシー・ハインドがデビューしたのは、彼女が28歳のときだったとのこと。
バンドが結成されたのが1978年らいなので、クリッシーももうすぐ還暦なのか。
西洋人に還暦もなにもないけど。
でも最近ミュージシャンの年齢ばかり気にしてないか?
おそらく自分は、自分でも気がつかないうちに自分の年齢とロックミュージシャンの年齢を比較して、
「まだまだやれる」と無意識に確認しているのかもしれない。
彼女もまたバリバリ現役のロックカーとして健在なのを確認して安心する。
それにしても驚きで敬服させられたのがゲストで出演していたイギー・ポップ。
画面で久しぶりに見るイギーポップの姿は、他のミュージシャンをはるか超越した存在感だった。
狂気、パンク、ロック、ドラッグ、暴力の匂いが60歳を超えても消えてないみたいで。
でもなにかずっと遠い先に視線が向いているようで、周囲の流れなんて我関知せずの感もあり。
でもあの顔、体型、あの歌、踊りは、いまだ『パンクのゴッドファーザー』としての凄みがある。
そんなイギー・ポップを見ていて、なんとなく頭に浮かんだのがこの人だった。
大江慎也 - GO FOR THE PARTY (大江慎也、花田裕之、井上富雄、池畑潤ニ)
「大江慎也の狂気」などといくら周囲が評していても、
そもそも狂っている状態が理解できないことには、やはり狂気もなにも理解できないのであり、
イギー・ポップにしても大江慎也にしても、
ただ理解を超えたスタイルに魅力を感じているだけなのか?
これをまた理解しようと試みる。
どうも、どうどうめぐりに陥ってしまうのでだめだ。
(wikipedia参照)
☆公式サイト(閉鎖)
☆SHINYA OE WRITING(以前執筆されていたブログ、現在は閉鎖により閲覧不可)
☆SHINYA OE(本人執筆のブログ、2008年5月1日をもって閉鎖)
大江さん本人も自分のなかで、狂気のどうどう巡りを繰り返しているのかもしれない。
あるいは健康問題?創作上の重圧?金銭問題?なんちゃら権利問題?
自分には想像がつかないストレスであることは確かだろう。
でも、カリスマである大江慎也が、生きることにもがき、そんな姿を晒してくれる。
それだけで、自分もあがき続ける力が出てくるのを感じる。
この次、いつ折り合いをつけてファンの前に姿を現してくれるのだろう。
でも・・・大江慎也はまだまだ若いのだ。
イギー・ポップより一回り若い50才でしかないじゃないか。
The Silent Midnight (Rough version)
2008年12月09日
ナビィの恋
久しぶりに観ました。
沖縄在住の中江裕司が監督したこの映画『ナビィの恋』。
はじめてこの映画を観た時はまだ今ほど沖縄民謡についての知識が少なく、嘉手苅林昌さんも大城美佐子さんすらも知らない頃だったので、沖縄の自然や色彩の美しさに目がいったり、随所にでてくる琉球語を翻訳した字幕などのカルチャーギャップを感じる程度の印象だった。その後、色々な沖縄民謡に触れる機会があり、覚えた曲も増えている自分が観たこの映画は、全く違う楽しみ方ができ、以前とは比較にならないほど作品の良さに触れることができた思いだ。
ナビィの恋は音楽ドキュメンタリーと寓話を合わせたような不思議な映画だなぁと。
いろいろなバージョンで唄われる『国頭ジントーヨー』『十九の春(じゅりぐぁ小唄』、そしてラストのカチャーシー『アッチャメー小』に至るまで、全編に沖縄の音楽を感じることが出来る。さらに出てくる音楽が島唄にとどまらず、アイリッシュ民謡やオペラ・カルメンやトラディショナル溢れる幅広い音楽がちりばめられる。山里勇吉と島人バンドで奏でられる、島唄バージョン『ロンドンデリーの歌』も味があって、フランクシナトラやビルエバンスもやっていたあの『ダニーボーイ』が沖縄の文化と交わるというこの刺激が、強く心の中に刻まれた。「音楽には国境が無い」とよく言われるけど、音楽にとって、いかにその国特有の伝統や文化が大きく関わり、大切であるかを改めて感じた。
自分は最近沖縄民謡を聴きだしたにわかファンなので、この映画では嘉手苅林昌、大城美佐子、林昌さんの息子さんの嘉手苅林次さんくらいしか知識がなかったのだが、平良とみ演じるナビィの旦那役の登川誠仁さん略歴を見て驚く。「8歳で喫煙・9歳で飲酒を始める」「11歳でカチャーシーをマスターする」凄い早熟な人なんだと。そして彼は”沖縄のジミヘン”と尊敬されているらしいことも知る。
そして、敬愛する嘉手苅林昌さんが亡くなったのは1999年10月9日。この『ナビィの恋』が公開されたのが1999年12月4日ということなので、おそらく林昌さんの最後の映像だったのだろうことも知った。雨の縁側で林昌さんと大城さんが並んで三線をひき唄う印象的なシーンが頭に焼き付く。これは自分にとっても貴重な印象深いワンシーンとなった。
2008年12月06日
Glenn Gould plays Bach / グレン・グールド
「クラシック音楽の解釈」などという領域に踏み込むには、まずクラシック音楽を好きになり、たくさんの曲を聴かなければスタートラインすら立てないのだろうか?
音楽の基礎を身につけてないことに関するコンプレックスもあり、たとえ自分の中での音楽の解釈、優劣をつけていたとしても、それを裏付けるバックボーンが無いという状況が、どうしてもクラシックとの距離を広げてしまう。でも偶然出会った好みの曲、感動した音楽が、たまたま「クラシック」と呼ばれるジャンルのものであることは、もちろんよくあることだ。基本的に音楽の善し悪しは自分の主観で判断するものだし、それはロックでもパンクでもクラシックでもジャズでも何ら変わりがないと思っている。
何が言いたいかというと、グレン・グールド(1932年-1982年)というピアニストのことである。
バッハがこんなに面白く、エキサイティングな音楽になりうる事を知った映像だ。
今まで、聴いてきた中でジャック・ルーシェのバッハなども興味を持って聴いた時期があったが、結局前衛的という試み以外の肝心の音楽として何が面白かったのか?という疑問が残り、そもそも自分の音楽的素養の出発点が違う気もして、ちょっと寂しい思いをしたりもした。
クラシックに見識のある人々にとっては、「グールドは、ピアノはホモフォニーの楽器ではなく対位法的楽器であるという持論を持っており、・・・」みたいな事を十分理解した上で、その音楽に自分の解釈を照らし合わせて理解を深めているのかもしれない。そう考えると、これもジャック・ルーシェの時と同じく自分は上っ面だけで自己満足していたということなのか?全然自信はない。
でも、グレン・グールドは何の知識も前提もなく楽しむことが出来る気がする。
錯覚だろうか?
彼はたぶんクラシックの音楽家としては確信的に新しい解釈の演奏を試みているのだろうことは、その音、映像で感じ取ることができる。それは、自分の中ではパンクが生まれた時に感じた高揚感に似ている。それはジャズが生まれたときや、ロックが生まれたときも同じ感覚だったのではないかな。
ずっと遡れば、バッハの音楽が誕生したときも、同じ化学反応が起きていたのかも知れない。
グレン・グールドは、ある時から決して人前でのライブ活動を拒絶してしまったというエピソーが・・・などと色々個性的な行動も逸話として残されているようで、このグレン・グールドというピアニストは、時代がどういう評価をしてきたのだろう?ということが気になってしまった。こういった背景も、彼の音を聴いた時の自分の高揚感に作用しているのかもしれない。
いずれにしても、彼のバッハなら、もっと聴きたいし、もっとそのパフォーマンスに触れたいという想いがあり、この想いは大切にしたい。
とにかくグレン・グールドの演奏は刺激があって楽しい。
このことに関しては、自分を信じてもいいだろうと思っている。
2008年11月16日
リゴレット / 北九州シティーオペラ
北九州シティーオペラによるヴェルディ作曲の「リゴレット(Rigoletto)」の上演。
場所は北九州小倉の九州厚生年金会館で、15日、16日の2公演のうちの初日でした。
指揮:ダニエーレ・アジマン
リゴレット:蓮井求道
マントヴァ公爵:森岡謙一(15日のみ)
ジルダ:ミンマ・ブリガンティ(15日のみ)
管弦楽:九州交響楽団
とりあえず浅い知識を補うため、「リゴレット」のストーリーやキャストを慌てて頭に詰め込みながら、そのストーリーだけ眺めると、あまりに悲しい痛ましい内容(文字通り「悲劇」)だけに、どこまで楽しめるかなどという不安がよぎり、さらに前日2時間睡眠の悪コンディションだったので、睡魔に襲われないかの不安も抱えながら、開演に臨みました。
冒頭幕が開くなり舞踏曲で男声合唱が力強く響き渡り(リゴレットの合唱部分は、ほとんど男性)、いきなり引き込まれ、その後は睡魔の不安など一度も思い出すことがなかったし、悲惨なストーリーなのに何故か嬉しい奇妙な感動の3時間を体験することに。
オペラの内容について語れるほどの見識はないので、「予想外の感動」というくらいしか言えないのが悔しいばかりですけど、キャスト、各ソリストの個性、魅力(特に、蓮井求道、森岡謙一、ミンマ・ブリガンティの3人が、がっぷり組んでて)は素人の自分にも十分堪能することができ、オペラという音楽ジャンルの凄さを再認識させてもらった思いが強く残った。
それにしても、北九州の地において、市民オペラという形態でこれだけのものを上演しようという関係者のチャレンジ精神や熱い思いが伝わってきて、キャストやボランティアやスポンサーなど、ここまで作り上げてきた人達のことを想像すると、胸にジーンと来てしまった。
まだ明日の2日目が残っているので、その成功も祈りつつ、この市民オペラ、KITAKYUSHU CITY OPERAという芸術活動が長く続いていくことを願うばかりでした。