2010年04月
2010年04月30日
ピアノが酔っちまった ・・・ Tom Waits
うさばらしで酒の力を借りようとしたのに、なかなか気分良く酔えなかったりするかと思えば、気持ちよく酔えるはずだった場で、なぜか想定外に悪酔いで醜態をさらしてしまったり。なかなか心から気持ちよく酔える酒の場というのは少ないのかもしれないことを、自らも改めて感じる次第で。
酔っぱらってまた咬みついた。 by ulalaさん
酒が引き起こしたことへの悔恨とか、酒にのまれた自分への自己嫌悪とか、自分もいつも翌日の状態はそんな感じだったような気もするが、結局それはちょっと酒が引き金になっただけで、おかしな状態になるのは心持ちが不安定なときなんだろうなと後で気がついたりもいつも似たような感じ。でもそんな反省がまた自分を追い込んでしまうのか?などとどうどう巡りをするのは精神の健康に良くないのかもなぁ。
「Piano has been drinking」
ピアノが酔っちまった
ピアノはずっと飲み続け
俺のネクタイはくたばっちまい
コンボはニューヨークに帰っちまった
ジューク・ボックスは便所に行き
じゅうたんの毛はぼうぼうで
スポットライトは豚箱の脱出口みたく見える
電話はヤニ切れになり
バルコニーは金儲けに熱中して
ピアノは酔っぱらって
とうとう狂っちまった
メニューはみんな凍っちまい
照明係は片目がっぶれ
もう一方の目だけじゃ何も見えねえとよ
ピアノの調律師は補聴器つけて
おふくろさんと現われた
ピアノはメロメロになって
とうとう狂っちまった
用心棒は相撲取りで
奴はホモで腰ぬけの黒んぼよ
そこの主人は薄らトンカチの小人で
知能指数はゼロ
ピアノは酒を飲み続け
とうとう酔っぱらっちまったぜ
ウエイトレスは
放射能探知機で探しても見っからねえ
奴はあんたやあんたの仲間を嫌ってるから
あんたはオーダーもできねえでいる
ボックス・オフィスはバカみてえに
べちゃべちゃしゃべって
バーの腰掛けは燃えあがり
新聞紙はうっちゃられっぱなしで
灰皿は灰で山んなり
ピアノは酔っぱらったまま
メチャメチャで狂っちまった
違う、違う、俺じゃねえ
この人みたいに、「すべて酒のせいや〜ピアノのせいや〜」と開き直りつつ酒を御する姿勢が性根がうらやましい。いや、もしかすると、酔っぱらっているときは自分も似たり寄ったりの精神状態なのかなぁ?
SION先生のアルバム『春夏秋冬』の中の曲『Closing Time』は、どうやらTom Waitsのデビューアルバムタイトルが由来であるらしい。ひときわ歌声を上げる「酔いどれトム」というフレーズにもリスペクト感がうかがえるような気もする。さすれば、酒飲みに関しては「Tom大先生」といった位置づけなのかもしれない・・・。
2010年04月26日
近ごろはいつも矢野顕子の『音楽堂』
身体の調子や仕事の好不調などのさまざまな波と同じく、自分の場合でいうと音楽への接しかたにもある期間ごとに波があり。とにかく新しい曲、流行ものを手当たり次第数追いかけて聴く時期があったり、ひとつのジャンルが気になると数珠つなぎ・・例えばスカパラが良くなってくるとレピッシュやフィッシュボーンやスペシャルズあたりまで遡ってジミー・クリフまで行って落ち着く、みたいなときも。グレン・グールドが気になっていた時期は、日頃あまり聴くことがないバッハ曲が、つられて気になったり。テレビで目にした沢田研二がかっこよく、しばらくはジュリー一色だったり、井上陽水もNHKの番組に連日かじりついた。そうしてまた冷めて少し距離を置いて、でもまた時間がたつと「あの感覚を」と反芻する。そういうことをよく繰り返す。そうかと思えば、なにも聴きたくない、めんどくさく思う日もある。
どういう心の状態が音楽の好みや方向性に影響を与えるのか?考えてみてもはっきりしたことは理解できないが、少なくとも熱くなれる対象がある時期というのは、生活に充実感や幸福感を少なからず感じているのは確かで。それは生活が充実していたり余裕があるから、音楽という文化的活動へもエネルギーが向くという図式も成り立ちそうであるし、音楽を聴いたり楽器を弾いたりすることが楽しいと感じる精神状態が、イコール幸福モードな生活の十分条件なのかもしれない。へこんだ時にも聴く音楽は決して幸福な状態ではないだろうが、音楽によって沈んだ気持ちを少しでも持ち上げることが出来ているなら、ベクトルは幸福方向に働いているはず。そんなことを思いめぐらしながら、では「不幸な音楽」なんてものはあるのだろうか?あるとしたらそれはどんな曲だろう?と考るも、なかなかイメージができなかった。そういう意味では、自分は今は幸せなのかもしれない。
矢野顕子のアルバム『音楽堂』が発売されて久しいが、いまだにヘビーローテーション真っ直中。
今日は何を聴こうかなぁ?と見渡し、結局選んでしまい最後まで繰り返す日々も既に長い。
今回のアルバムもスーパーフォークソングからずっと続くカーバーソングのピアノ弾き語り。特に病床から復活された名匠エンジニア・吉野金次氏との黄金タッグはそれはもう最高だ。タイトルの由来ともなっている神奈川県立音楽堂での録音は、心なしか今までより広がりというか反響の感じが深いように感じる。スーパーフォークソングのドキュメンタリーで映された緊張感溢れる制作現場の印象がいまだに残っていて、そのため1曲1曲生み出されるまでの過程を空想しながら聴くことがまた楽しく。曲は『グッドモーニング』『へびの泣く夜』ではじまる2曲が、なんだかまるで昔から聴き慣れ親しんだ録音のように錯覚するほど頭の中に入り込んでくる。個人的には4曲目までのうち2曲が「くるり」の曲だいうのもまた気持ちよく聴ける要因のひとつとなっているのかもしれない。ただ『春風』などはいつもながら元曲のイメージよりも強いくらい自分の曲になってしまっていて笑う。今回の選曲の中の1曲は、MySpace上で募った『矢野さんこれ歌って!』キャンペーンによって寄せられたファンのリクエストで『さあ冒険だ』だという曲。採用された人の名前がアルバムにクレジットされるということもあって、自分もGrapefruitsMoonをリクエストしてみたけどあえなく落選。リクエストした「HIROKO」さんという名前のクレジットを確認して羨望のため息をついた。この『さあ冒険だ』は、「ポンキッキーズ」の主題歌であり作詞:森高千里with S.Itoi(糸井重里)、作曲:カールスモーキー石井、唄:和田アキ子という凄い取り合わせ。そんな曲に矢野さんがコラボすることだけでもワクワクしてくる。
そんなカバー曲たちの中にあって、唯一矢野さん自身が作詞作曲の曲である『きよしちゃん』
きよしちゃん、いい曲だね きよしちゃん
きよしちゃん、いい歌だね きよしちゃん
この手をはなさない はなしてはいけない
ことばはいらない
Everything is gonna be alright
We'll do everything to end this fight
この曲の作曲時期はいつだったのだろう?
「どうしたんだい、ヘイヘイ、ベイベー・・・ヘイヘイ、ベイベー」
歌詞カードにも載ってないつぶやくように静かにフェイドアウトしていくアッコちゃんのこの歌声は、
でも、それは最後まで前を向いて、自ら(そして僕ら)を励ます声のようにも感じ聞こえた。
2010年04月20日
不毛地帯のTom Waits
いつ、どのアルバムを聴いても、トム・ウェイツは良い。
アサイラム→アイランド→アンタイとレーベルが移るごとに曲調、色合いが大きく変わっていくなか、でも、どれをとってもかわらず魅力を感じ続けさせてくれるというのは、ただこの特徴的な声や彼の存在自体が自分のツボにはまっているのだと思う。
写真は、トム・ウェイツのアサイラム・レーベル時代(ワーナー・パイオニア)のアルバム『Small Change』
1976年、3枚目のアルバムとして発売されたスモール・チェンジだが、そのライナーノーツを読むと・・・国内盤は、77年の来日前年になってデビューアルバム『Closing Time』(本国では73年発表)、2枚目の『The Heart of Saturday Night 』、ライブアルバム『Nighthawks at the Diner(娼婦たちの晩餐)』の3枚が同時に発売になったとされている。これは輸入盤でじわじわ人気が出てきて、来日が決まったと同時、ほぼ1年以内に4枚ものアルバムが慌てて国内発売された、という感じなんだろうか?
初めて聴いたTom Waitsはアイランド・レーベルから発表された82年の『ソードフィッシュトロンボーン』だったので、このLPは数年後追いで手に入れたことになる。トムが最後に来日したのが78年。結局これまで生で観る機会はなかったのが少し恨めしい。
恐ろしく久しぶりに、このアルバム『Small Change』に針を落としてみた。
予想を大きく裏切るクリーンな音で、相当大事に聴いていたんだなと当時を振り返った。
先日mono-monoさんのブログで、このアルバムA面1曲目である『トム・トラバーツ・ブルース』がドラマ『不毛地帯』のエンディングテーマに使われていたということを知った。放送終了後のことである。
再放送があれば、是非見てみたいなと思っている。
http://mono-mono.jugem.jp/?eid=630
"Tom Traubert's Blues (Four Sheets to the Wind in Copenhagen)"
トム・トラバーツ・ブルース骨折り損のくたびれ儲けってわけだけど
月のせいじゃねえ
身から出た錆ってことよ
あした会おうな おい、フランク
2、3ドル借してくれねえかな
もう何もしねえで、デレッとしてたいからよ
お前も俺と一緒にノラクラしてるかよ俺は真暗な裏通りの被害者なんだぜ
ここにいる兵隊達にゃもう飽き飽きしたぜ
誰も英語を話せねえし、全てがメチャメチャだ
俺の運動靴はぐっしょり濡れちまって
踊りに行きてえと思うけど、これじゃ行けねえよな
お前も俺と一緒に踊りに行きてえかよ犬どもは吠え立てるし
タクシーは道のはじに止まってるぜ
もっとましなことができそうなもんだがなあ
俺を刺し殺してくれって頼んだら
お前は俺のシャツを引き裂きやがった
俺はひざまずいてお前に頼んでるんだぜ
オールド・ブッシュミルを飲みほして、俺は千鳥足だ
お前はその短剣をどっかに捨てちまった
その姿が影になって薄明るい窓に映ってるぜ
ワルツィング・マチルダでも聞きながら、
デレーッとしてたいんだよ
何もしねえで、ブラブラしてたいんだそう、俺はお守りの十字架を無くしちまい
あの娘にキスしたのさ
そう、そばにあったスロット・マシーンが見てたぜ
薬の売人、冷酷できたねえ看板
ストリップ劇場で体をくねらす女達
みんなワルツィング・マチルダに合わせて
ダラダラやってる お前もその仲間に入った
らどうだい、俺と一緒にお前の同情なんて欲しくもねえよ
ずらかった奴等は、街にゃ夢なんてもんは
ありゃしねえって言うぜ
殺人犯を追いまわす捜査網、想い出を売る亡霊
みんなとにかく何かしたがってるのさ
ダラダラした生活に飽き飽きして
何かすげえ事が起きるのを待ってるってわけよ水兵にかたっぱしから聞いてみな
看守の奴からぶん捕った鍵
車いすに乗った老いぼれ爺さんは
マチルダが被告だってこと知ってるぜ
奴は百人くらい殺っちまったんだからな
お前の後だってどこまでも付きまとうだろうよ
マチルダに追いまわされる、
マチルダに掴まっちまうぜ、
お前も俺みたくマチルダから
逃げられなくなっちまうんだぜ使い古してボロボロのスーツ・ケースと
どっかの安ホテルで
受けた傷は二度と直りゃしねえ
気のきいた香水をつけた女もいねえ
着古したシャツにゃ血と酒のしみがある
街のそうじ人さんよ、おやすみ
夜警のおっさん、街灯をつけて歩くおっさん
それにマチルダよ、おやすみ
(日本盤対訳:山本沙由理)
ずぶずぶの酔っぱらいのたわごとのようでもあり、
全てをあきらめて墜ちてゆく男の遺書のようでもあり。
でもトムが歌うその声は、妙に広く大きく包み込むようで強い意志?も感じて。
それが歌詞とのギャップも同感も同時に感じる要因なのかもしれない。
そうしてそんなニュアンスで、いつも煙に巻かれてしまう。
2010年04月15日
おくりびと チェロの音色
人間の考えること(この場合脳みそといったほうがいいか・・・)はなかなか複雑で、でも簡単に周囲の情報や状況に影響を受けて勝手に思いこんだり、こだわったりする。
ある時はいろんなキーワードを縦横に串刺しされて合成したり、また意味もなくバラバラな要素に分解もする。そういう意味ではホントに深くて曖昧なものだなと。
昨日は企画書を作ったり、営業回りをしたり、売り掛け回収を行ったり、お客さんからたのまれたPC不具合の原因究明を行ったり。そんなまとまりのつかない仕事が断片的に続いたあと、必要に迫られて途中まで作成していたデータ移行のプラグラムの続きを組んでいた。コーディングは昔取った杵柄とはいえ、経験の浅いPG言語だったことに加えて、もうかなり数学的な思考回路が退化してしまった脳みそとの格闘になる。何度も見直したはずの部分に隠れてバグをなかなか見つけることができなかったことに軽くショックを受けながら、まあ、たまにはいい頭の体操になったと気持ちを切り替えた。しかし、少々深追いしすぎた。
明日の事も考えてそろそろ休もうとするも、頭がぷすぷす音を立てながら湯気が立ち上るような状況では、すぐに寝つけそうもなく。あ〜またやってしまったという思いがよぎりながら、どうやって眠りまでのクールダウンをしていくかを思案する。
仕事がはかどる調子のいい日もあるが、調子の悪い日もある。
でも調子の良い日にあまりのりすぎて無理をすると、結局トータルでマイナスになってしまもの。
結局プロとはそういう自分を律する力を持たなければプロたり得ない、そういうことなんだろう。
毎日規則正しく、時間を決めて作曲するという久石譲さんを思い出す。
そして録画したまま観た気になってしまったいた『おくりびと』を探しだし再生した。
そのときなぜか、ノッキン・オン・ヘブンズドアを観た夜に似た感情だったことを後で思い出す。
おくりびとの曲も、ストーリーも、印象的な場面もなんとなくすでに頭に入ってしまっていて、「アカデミー賞の外国語映画部門賞を獲った映画」という余計な情報もあり、こんな場面がアメリカでも受けたのかな?ここで笑ったりしたのだろうか?などと脇道にそれたことばかり思いながら、本来の面白さとは少しズレた観賞だったように思う。でも、そんな悪条件がありながらも数々のシーンが焼き付くように心に残っていくのがわかった。本木雅弘も広末涼子も滝田洋二郎も久石譲もすごいな。そして観終わると、チェロの音色に体中を包み込まれるような感覚になり、あっさり眠りについていた。
そして昨晩、久しぶりにへんな夢をみた。ほぼ本当にみた夢。
祖父、祖母と夢の中で再会するという内容だった。
自分が祖母の手をひきながら、二人で散歩していた。
お世話になった人々や親戚の家を何件も訪ねて回っていた。
その間の祖母は楽しそうだったが、最後までまったく言葉を発しないのが印象的だった。
長いこと二人で歩いて日も暮れた頃、博多・春吉から春吉橋あたりの風景にたどりついていた。
でもその風景には博多にあるはずもない小倉井筒や玉屋なんてデパートも立ち並ぶおかしな風景で。
そこ春吉橋の上では旅回りの落語家一座キャラバン隊(?)が即席寄席をやっていて。
4人ほどの落語家さんの名は覚えてないが、そのなかの一人がulalaさん?!ではないか。
ドクターのかたわら旅回りの落語をやっているというよくわからない設定のようだ。
その時ulalaさんとはなんとなく目線でお互いを確認し、うなずいたように記憶する。
落語にくわしくないのは夢の中でも同じようで、これがなんの演目かもしらないままただ聴きつづける。
その時、祖母と自分が座っている横にはいつのまにか祖父が座っているのに気がつく。
「福岡住まいは長いけど、気の利いた飲み屋さんもあんまり知らないしなぁ。」
「ulalaさんを今夜はどこに飲みに誘おうかなぁ?」
などと落語とは関係ないことを祖父と話しながら。
そうこうしているうちに、祖父が胸を押さえて徐々に苦しみだし、パニックに陥り。
脈を診る、声をからして人を呼び、救急車を呼んでくれと叫んだ。
ぎこちなく胸に手を押し当てながら、(夢の中ではあるが)生まれて初めての心肺蘇生をこころみた。
そしてすがるようにulalaさんの方向をを振り返ってみると、なんとも間の悪いことに橋の上でヤクザにからまれてもめている最中で、こちらに気がつかない。
このあたりから、これは夢の中なんだなぁと半分気がついていたような状態だったが、不思議な感覚がやわらかく心地よく、このまま最後まで夢を見ることを続行した。
おちもなにもなが、はっきり覚えているのはここまで。
でもこんなに夢を覚えているのもめずらしい。
”寝る前に観たばかりの映画おくりびとのシーン記憶”
”幼少時代、祖父母にはさまれて川の字になって寝ていた記憶”
”ulalaさんのブログの記憶”
たぶんそんな記憶が引きおこした夢だったのだろうか。
現実と夢との境目がいたるところで入り組みあいながら、勝手な風景や場面を作りだしたり。
どうやら全体的には何かの関連づけがありそうだと感心し、
これはブログに残しておきたいと思った。