2009年05月
2009年05月09日
忌野清志郎・アオヤマ・ロックンロールショー
なんでもネットの中で終わらせるつもりではないけれど、
自分で見て聞いて感じたことでもない出来事の記憶を、
それが記憶と呼んでもいいモノなのかもわからない「何か」だとしても、
自分なりに残しておくことで、気持ちにひとつの区切りをつけたいという気持ちで。
「本日は忌野清志郎青山ロックンロールショーにお越しいただき、ありがとうございます」
「今日は素晴らしい1日になるでしょう。最後までお見送りください」
こんなアナウンスに、大きな歓声が湧いたそうだ。
「清志郎らしく、明るくにぎやかに送ってやってほしいです」
(葬儀委員長・個人事務所、相沢自由里社長)
「忌野清志郎さんが死んだなんて絶対に受け入れることはできません。でも本当なんですよね」
「みんな清志郎さんが大好きです。僕は忌野清志郎と友達なんだぜって自慢したいです。ずっとずっと自慢してていいですよね。清志郎さん」
「抗ガン剤の副作用で髪が抜け落ちた際、「全部抜けると剛毛なんだぜ」と話してくれた」
「清志郎さん、ボス、キング、ゴッド、ずっとずっと、僕たちは清志郎さんが大好きです」
「清志郎さん! またね!」
(竹中直人さん)
「あなたが言っていた愛と平和の日が一日も早く来るようにリードしていってください」
「清志郎さん、本当にお疲れさまでした。本当に本当にありがとう」
「時々空の上から『愛し合ってるかーい!』と問い掛けてください。『OK、ベイビー。最高だぜ』と答えられるよう、あなたのように強く、優しく、楽しく生きていきます」
「愛し合ってるか〜い?」
(大竹しのぶさん)
「清志郎、あなたとの思い出にろくなものはございません。突然呼び出して知らない歌を歌わせたり、今思えば冗談だったんだ。今日もそうだ。ひどいよ、この冗談は」
(甲本ヒロトさん)
「青春のすべてだった。今日は清志郎がここに連れてきてくれたのだと思う。ありがとうと言いたい」
(長野県からきた保育士さん)
「献花した時に涙が止まらなかった。認めたくなかったけど、清志郎の死を受け入れることができました」
(岡山市からきた会社員)
「自分もガンを患っている。清志郎さんがガンと闘う姿に自分を重ね合わせてきた。清志郎さんの生き方は最後まで本当に見事だった。本当にありがとう」
(埼玉県からきたニットデザイナー)
「清志郎と出会って音楽が好きになった。自分もアマチュアで歌っている」
(アルバイトの女性)
「高校時代、屋上に一人でいるような世間から外れた人間だった。清志郎さんの音楽に出会い、人に対して笑ったり、怒ったりすることが怖くなくなった」
(愛知県からきた幼稚園勤務)
「ありがとうの一言に尽きます。これからもずっと一緒なのでさよならは言わない」
(千葉県から来た女性)
「清志郎さんはいつも命がけで歌っていた。これからは私たちがそんな清志郎さんの姿を伝えていきたい」
(横浜市の女性)
「誰かのお葬式ですか。こんな長い列は初めて見ました」
(外国人の男性)
「僕のアパートに彼を呼んで、僕がカレーを作って食べたのを覚えている。無口でぶっきらぼうでシャイで、優しい。彼なりのダンディズムがあった。亡くなって残念。若かった」
(井上陽水さん・自身のコンサートにて)
そして「帰れない二人」をアコギ一本で歌ってという。
「デビューがほぼ同時期で、僕らはハーモニーのグループでしたが、RCサクセションはパンクロック。正反対の表現方法でどこにいても目立つ存在でした」
(南こうせつさん・日比谷野音にて)
「告別式もパーっとやった方が、キヨさんもうれしいと思う。最高のライブ」
(及川光博さん)
「残念。僕の唯一のロックアイドルだった」
(サンプラザ中野くん)
「(自転車で)一緒に走ることができなかった」
(鶴見辰吾)
放送禁止用語なんかで因縁深かったFM東京(TOKYO−FM)が、告別式をラジオで生中継したという。
遺影に、「イェーッ!!感謝For You!」と直筆文字をプリントしたポストカードを配布。
「帰ってこいー」と叫ぶ人、
ギターを取り出し、「雨あがりの夜空に」を歌う人、
ビール片手に酔っぱらう人、
紙吹雪を投げる人、
ホラ貝を吹く人、
両手を挙げて拍手する人、
おえつを漏らさないようハンカチで口をふさぐ人、
7時間も列に並んでやっと献花できたという人、
涙を作り笑いで隠し、手拍子、足踏み、指を鳴らして、故人を天国へと送り出していたという。
今日、今現在も、参列の人が途絶えなてないらしい。
人それぞれの悼みかたによって、故人の存在がより強く浮き彫りになることを感じた今日。
「感謝します。どうもありがとう。」
自分で見て聞いて感じたことでもない出来事の記憶を、
それが記憶と呼んでもいいモノなのかもわからない「何か」だとしても、
自分なりに残しておくことで、気持ちにひとつの区切りをつけたいという気持ちで。
「本日は忌野清志郎青山ロックンロールショーにお越しいただき、ありがとうございます」
「今日は素晴らしい1日になるでしょう。最後までお見送りください」
こんなアナウンスに、大きな歓声が湧いたそうだ。
「清志郎らしく、明るくにぎやかに送ってやってほしいです」
(葬儀委員長・個人事務所、相沢自由里社長)
「忌野清志郎さんが死んだなんて絶対に受け入れることはできません。でも本当なんですよね」
「みんな清志郎さんが大好きです。僕は忌野清志郎と友達なんだぜって自慢したいです。ずっとずっと自慢してていいですよね。清志郎さん」
「抗ガン剤の副作用で髪が抜け落ちた際、「全部抜けると剛毛なんだぜ」と話してくれた」
「清志郎さん、ボス、キング、ゴッド、ずっとずっと、僕たちは清志郎さんが大好きです」
「清志郎さん! またね!」
(竹中直人さん)
「あなたが言っていた愛と平和の日が一日も早く来るようにリードしていってください」
「清志郎さん、本当にお疲れさまでした。本当に本当にありがとう」
「時々空の上から『愛し合ってるかーい!』と問い掛けてください。『OK、ベイビー。最高だぜ』と答えられるよう、あなたのように強く、優しく、楽しく生きていきます」
「愛し合ってるか〜い?」
(大竹しのぶさん)
「清志郎、あなたとの思い出にろくなものはございません。突然呼び出して知らない歌を歌わせたり、今思えば冗談だったんだ。今日もそうだ。ひどいよ、この冗談は」
(甲本ヒロトさん)
「青春のすべてだった。今日は清志郎がここに連れてきてくれたのだと思う。ありがとうと言いたい」
(長野県からきた保育士さん)
「献花した時に涙が止まらなかった。認めたくなかったけど、清志郎の死を受け入れることができました」
(岡山市からきた会社員)
「自分もガンを患っている。清志郎さんがガンと闘う姿に自分を重ね合わせてきた。清志郎さんの生き方は最後まで本当に見事だった。本当にありがとう」
(埼玉県からきたニットデザイナー)
「清志郎と出会って音楽が好きになった。自分もアマチュアで歌っている」
(アルバイトの女性)
「高校時代、屋上に一人でいるような世間から外れた人間だった。清志郎さんの音楽に出会い、人に対して笑ったり、怒ったりすることが怖くなくなった」
(愛知県からきた幼稚園勤務)
「ありがとうの一言に尽きます。これからもずっと一緒なのでさよならは言わない」
(千葉県から来た女性)
「清志郎さんはいつも命がけで歌っていた。これからは私たちがそんな清志郎さんの姿を伝えていきたい」
(横浜市の女性)
「誰かのお葬式ですか。こんな長い列は初めて見ました」
(外国人の男性)
「僕のアパートに彼を呼んで、僕がカレーを作って食べたのを覚えている。無口でぶっきらぼうでシャイで、優しい。彼なりのダンディズムがあった。亡くなって残念。若かった」
(井上陽水さん・自身のコンサートにて)
そして「帰れない二人」をアコギ一本で歌ってという。
「デビューがほぼ同時期で、僕らはハーモニーのグループでしたが、RCサクセションはパンクロック。正反対の表現方法でどこにいても目立つ存在でした」
(南こうせつさん・日比谷野音にて)
「告別式もパーっとやった方が、キヨさんもうれしいと思う。最高のライブ」
(及川光博さん)
「残念。僕の唯一のロックアイドルだった」
(サンプラザ中野くん)
「(自転車で)一緒に走ることができなかった」
(鶴見辰吾)
放送禁止用語なんかで因縁深かったFM東京(TOKYO−FM)が、告別式をラジオで生中継したという。
遺影に、「イェーッ!!感謝For You!」と直筆文字をプリントしたポストカードを配布。
「帰ってこいー」と叫ぶ人、
ギターを取り出し、「雨あがりの夜空に」を歌う人、
ビール片手に酔っぱらう人、
紙吹雪を投げる人、
ホラ貝を吹く人、
両手を挙げて拍手する人、
おえつを漏らさないようハンカチで口をふさぐ人、
7時間も列に並んでやっと献花できたという人、
涙を作り笑いで隠し、手拍子、足踏み、指を鳴らして、故人を天国へと送り出していたという。
今日、今現在も、参列の人が途絶えなてないらしい。
人それぞれの悼みかたによって、故人の存在がより強く浮き彫りになることを感じた今日。
「感謝します。どうもありがとう。」
2009年05月05日
向こう側までの距離と時間、その使い方
忌野清志郎さんが亡くなることになる日の前日深夜、いやもう当日早朝だった。
深夜までの仕事を終え、帰宅して時計を見ると既に午前3時を回っている。
帰宅すぐはいつも神経がすこしだけ興奮状態にあり、その熱がさめるまでの間だはいくらAM3時でも寝付くまでにはまだしばらくの儀式が必要な普段。
いつもなら眠剤の力を借りて強制的に床につくのだが、その深夜は、なぜだか寝るにはまだ物足りないような気分であり、でも時間的には翌朝が危なすぎる。
なのにTVをつける。そしてリモコンのボタン割り当てにも設定しないムービープラスなのに、引き込まれたようにチャンネルを合わしていた。
めずらしいドイツ語の映画がやっていた。
まさか、あの映画?『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』なの?
ulalaさんに絶対観ると誓ってから、どんどん先送りされていたこの映画。
そしてTSUTAYAに借りに行って在庫切れとからぶりに終わってふてくされたあの映画。
もう縁がないのかと思っていた。
現在時は3時40分くらい。
このタイミングは、これは見なくてはいけない。これもは神様の啓示だ。(なんて無理やり思いこむ)
もう明日のことは・・・いや今日のことはどうにでもなる。
面白くなかったら寝ているだろうし、面白かったら、見るべきなのだ。
観た。もう外は明るくなりつつある。ひんやりした朝にけだるい身体。
想像していたイメージに近い映画だったように感じた。
でもそれは、だいたいのストーリーのイメージがあったためもあるが、そんなに悪い意味ではない。
自分の期待の高さに十分答えてくれたように思う。
導入部分が思いっきり長い音楽PVであるような感覚に陥る。
その前振りも最後に出てくる曲の登場を十分演出してくれた。
ラストは静かに静かに震えた。
そして、見終わった後に、あと自分が生きられる時間についての想像を強制させられた。
何を残して人生を全うすることができるのかを考えた。
もしかすると死んでいたかもしれないあの時、「もう一度だけチャンスを下さい」とはじめて神というもの(なんの神かはよくわからない)に祈った夜の事を思い出した。
チャンスをいただいた自分は、その計らいに対して、いったい何を報いることができたのか?
その夜のニュースに、どうしてキヨシローが逝くことがそんなに虚しく不条理に感じたのか?
それはあんなに祈って戴いたチャンスを大事にしていない自分への苛立ちと恥ずかしさなのだろうか。
つい、この先残された時間を計りながら思ってしまう。
かっこよく生きたいと深く思う。